冷たい身体と冷たい夜
097:凍りつく夜にあなたが教えてくれた哀しい出来事
響く靴音は不吉で、だがその静けさは気を惹きつけてやまない。壁一枚の隔たりはおどろくほど厚く深く隔絶する。卜部は人が通らない路ばかり選んで自室へ引き取る。じゃれあうのは嫌いではないのにときおり引きつけのように渇いて一人になりたくなる。仲間ではなく卜部の側に理由があるから吹聴していない。長いものに巻かれる主義なんで。結論の必要に迫られたとき卜部はたいてい案の一つとして多数決を上げる。数の暴力なのになんだか公平なようで納得させられるし文句も出にくい。卜部も含めた身内は基本的に上官に傾倒しているから方向性も奇抜なものはない。趨勢に忠実だ。いつの間にか出来た流れに乗って卜部はどこかへ運ばれていく。その先に虚が開いていても卜部はきっと流されて、そのまま落ちるだけだ。あらゆる意味で侵略を受けているこの日本という国土を捨てきれないのはそういうところに起因する。日本は落ち目だ。大規模な戦闘にも敗北し結果としては最悪の形を結実しようとしている。国を捨てるものも多かった。その国の存亡さえ危ういのだから一概に責められないが。
卜部が顔を上げた。前から歩いてくる奴がいる。眉をひそめてしまうのは考えるときの癖だ。日本人としては稀有な長駆であるからリズムが違う。自分と間隔の違う歩く音や気配には敏感だが周りはそればかりだ。だから聞き分けるだけの力がついた。この靴運びは中佐だな。軍階級で中佐に位置して卜部に関係するのは藤堂鏡志朗だけだ。卜部が直接的に指示を仰ぐ上官であるし卜部は彼の手脚でもある。阿吽の呼吸とはいかずとも言葉少なで事足りるくらいには気心も知れている。何が好きで何が嫌いかとか。足を止める卜部に気づくでもなく一定の間隔で靴音がする。間遠だ。調子でも悪いのかと思いながら食堂であったときは残してなかったななどと想い出す。急に鮮明になる視界に怯んだのは藤堂だ。倒れそうに俯いていた姿勢がしゃんと伸びる。卜部は感情的に眉をひそめた。藤堂は明らかに卜部を見て態度を変えた。
藤堂の我慢強さは性質悪く働く。痛いとか苦しいとか辛いとかそういったもろもろを藤堂は周りに訴えない。罹患している時などいきなり倒れる。医務室へ担ぎ込んで診察を受け医師に藤堂ともども周りが叱られる。なぜもっと早く言わないという叱りはいつも同じだ。
「中佐?」
気づいたふりで眺める藤堂の顔色が悪い。姿勢も足運びも指先にさえ現れない変化が顔色に著しい。真っ青だ。白皙ではないからまだ程度が緩いもののなにがしかを抱え込んでいるのは間違いなさそうだ。いつもはきっちりと留められている襟元が弛められているのも相違点だ。口元をおおったり拭ったりする。吐いたか? 体調が悪い素振りはなかったがなにせ知らせない人であるから腹の中身が判らない。
「うら…べ…」
藤堂の喉がゴクリと鳴った。襟が開いているから喉仏が見える。なだらかな尖りの其処は奇妙に影を写す。ゆらりと、藤堂の体が傾ぐ。慌てて伸ばした手に藤堂は逆にすがりついてきた。痛いほどに立てる爪が軋む。軍服越しであっての痛みに藤堂の負担が気になる。爪が剥げるぞ。
「………卜部、わたしを」
膝が折れた。釣り上げるわけにもいかないから卜部も一緒に屈む。
「たすけて」
卜部の肩口へ顔を埋めた藤堂の声が驚くほど弱くて、卜部はこれは本当に藤堂なのかと疑った。卜部の前に立つ藤堂はいつでも確りとして勁く、それ故に孤独でひどく美しい。僅かに崩れた傷みを目にして卜部の何かが揺らぐ。藤堂は大きく息を吸うとすぐに立ち上がった。その時にはいつもの表情に戻っている。先ほどの綻びを目の当たりにしたばかりであるからそれはことさら虚勢に見える。立ち上がりこそしたが藤堂はまだふらつく。卜部は付き添うつもりで膝を払うと腕を引いた。
「どこ行くンすか」
藤堂が目を瞬かせる。潤みに怯んでから気後れが見えた。それだけで察しがつく。藤堂は気の進まない訪問先があって、なお其処に行かないという選択肢はないのだ。そしてそれはきっと知られたくない、場所。不本意な作戦の実行を言いつけられた時に似ている。説明をしながら苦々しげで周りが嫌だ駄目だといってくれるのを待っているような気弱さが窺える。
「どこに行くんですか」
改めて問うのは卜部の退かぬつもりを示すためだ。ほころびを見せた事自体が尋常では無いのだ。手助けができるならすることは躊躇しないつもりだし、それで卜部が何かをなくしても良かった。藤堂が淀んだ。良きにつけ悪しきにつけ、軍属の鑑である藤堂は否か応かがはっきりしている。出来ることと出来ないことの区別ができる。その範囲は本人だけではなく周りの戦闘力の分析にも生かされている。もう一度問おうかと口を開きかけた卜部の目の前に藤堂の手が昇る。すぅっと袂を捌くように優美で少し哀しい動作。そういえば藤堂の私邸にも訪うという朝比奈が藤堂の私服は和装が多いと言っていたのを思い出す。見えない裾と袂は優美に捌かれて動きの流れさえ遮らない。その分、悲壮さが匂い立つ。薫るそれは芳しく切ない。藤堂は意見のすり合わせも妥協も知っているのに融合だけは知らないように拒む。だからいつでも一人なのだ。
玲瓏と静かに藤堂が部屋番号を応えた。特定の持ち主はいない部屋だ。手狭だが会議や打ち合わせに使われ、申請さえすれば誰でも使える。申請は必要なだけの手続きで、基本的に空いている。
「こんな、時間に?」
不自然な時間帯と人気の無さと藤堂の悲壮が音を立てて嵌まる。藤堂は笑った。艶めくそれは囚われた。くるのか? 不意に問われて卜部は応えられなかった。意味が図りかねた。中佐、それ、どういう、意味? 別に。お前がここにいるから。どこに行くかと訊くから。同じなのかと思っただけだ。藤堂の目は前に据えられて動かない。灰蒼は乳白の濁りを帯びて潤むと瞬く。ふるりとした震えは小動物の鼓動に似た。藤堂の灰蒼は止めて欲しくて潤みながらそれが叶わないことを知っていて瞬く。滑るように歩き出す藤堂の後を追った。ふらふらと揺らいでいるのに足運びだけは確りとしている。部屋の前につくと藤堂は到着の知らせの前に卜部に断りを入れた。
「立ち去ってくれて、いいから」
深意をはかりかねた卜部は結局そこに残った。
藤堂は男に抱かれた。
出てくる藤堂と顔を合わせるなど考えられなかった。根底を撫でるザラリとした嬌声と聞こえないはずの息遣いや空気の緊張と終息の弛み。扉の開く気配と取っ手の動きに卜部は弾かれたように逃げ出した。めちゃくちゃに走り回ってひどく疲れて足が止まる。喘ぎながら犬のように舌を出す。渇いた喉が引き攣れて吐きそうだった。飲み込む唾液さえ出てこない。吐き気に息を詰まらせながら原因は判ってる。卜部は性的な処理の手助けとして少なからず藤堂の世話になっていた。その事実は胸を圧して嘔吐を呼んだ。自分も藤堂を抱く男と同じものなのだと。便所に駆け込むほど切迫しながら吐き出すものはなかった。便器に向い合って座り込んだまま卜部は枯渇に啼いた。
それでも卜部はあの人気のない路を頻繁に通り、藤堂に遭遇した。息を詰めるほど苦しかった対面は滞り無く済んだ。藤堂ははにかむように微笑むだけだった。言い訳も説明もない。卜部が逃げ出したことさえ言及しなかった。その後も作戦の打ち合わせや実行を繰り返して顔を合わせた。同じくらい人気のない深夜に遭遇もした。結果はいつも同じだ。卜部が部屋の前まで送り、藤堂が出てくる頃に卜部はいない。その度に卜部は吐いた。それでも処理に藤堂の映像は必要だった。悪循環だ。藤堂の相手はいつも男だ。藤堂の気概を折るという意味以外に胤を宿されては困るからだろう。女性は嘘をつく事がある。扉一枚を隔てた先で藤堂はくずおれ、膝を付いているだろう。土下座したり懇願したりしているのかもしれない。卜部が佇む間に藤堂が飛び出してくることは、なかった。どこかしらから漏れ出る濃密な交渉の気配に耐え切れなくなった卜部が逃げ出して便所へ駆け込むのが続いた。
だから今日もそうなのだと思っていた。藤堂が扉の奥へ消えていくらもしないうちに扉が開いて卜部はひどく驚いた。顔も名前も知らないが若い男だ。傲岸な態度から階級が知れる。卜部よりは上だろう。胸元や袖の階級章を認めて若い男はふんと嘲笑った。あれの男か。大儀なことだ。無残に引き裂かれた服をまとって放心している藤堂だけが残ってた。卜部は躊躇しながら足を踏み入れた。濃密に精の香りがする。扉を閉めると藤堂が振り向いた。開け放しの窓は硝子が嵌め殺しになっている。遮光布さえない硝子の先から月白は降り注ぐ。ある程度の高度があるから覗かれることはないと見積もった部屋だ。藤堂の顔は綺麗だ。腹部や胸部を重く闇に鎮める痣は変色していた。擦過傷や裂傷さえ帯びている。床へ水溜りを作るのは精ではなくて血だ。
「馬鹿っ、あんたァ――」
屈みこむ卜部の唇を藤堂が奪った。渇いて固いそれが卜部の肌へ吸い付く。血の味がする。藤堂は何も言わなかった。言い訳も嘆きさえもない。痛いとさえ言わない。言葉を亡くしたように藤堂の喉は動かない。物音さえさせなかった。
卜部は藤堂を抱いた。
熱に啼きながら藤堂は避妊具を使って欲しい身振りをして差し出してきたから、卜部はその避妊具を使った。塗布されている薬剤の成分やそれと藤堂の関わりは考慮しなかった。使って欲しいと言うのだから使った方がいいのだろうという認識でしかない。
分離した藤堂と卜部はそれぞれに好きな方を向いて呆けている。窓の外を熱心に眺める藤堂を見ながら藤堂の灰蒼は硝子のように澄んでいることを知っている。藤堂の目は何も見てない。肉体として視力を欠損させているわけではないようで、星の瞬きや月白に時々眩しそうに目を眇める。認識として景色や状況を認めていないのだ。
「なぁ、あんたさぁ」
ぞんざいな言葉遣いでも咎めもしないし目も向けない。無視されているのかと思ったが聞いてはいるようだ。
「たすけてって、言ったよな?」
裸身が月銀で照る。灼けた藤堂の皮膚を撫でる白は色を変えて舐める。精悍に整った藤堂の顔の造作はけして悪くなどなく、今はむしろ妖艶なくらいだ。凛とした眉筋と通った鼻梁。切れ上がる眦とわずかばかりに影を落とす睫毛。鳶色の髪と灼けた皮膚をしながら灰蒼に濁る目は白い。
「わたしはおまえがすきだった」
引っかかる物言いなのは無視する。藤堂の言葉の刺が卜部を刺す。藤堂が抱かれている間に逃げる男のことなど良く思わずとも当然だ。悔いるように俯く卜部に藤堂は不思議そうに首を傾げた。
「私はもう、お前の区別がつかないよ」
卜部の茶褐色が俯いたまま見開かれた。藤堂は謳うように言葉を紡ぐ。私を抱くものの声も体も音も何も判らない。そのものが前に私を抱いたのか私が抱いたのかさえ判らない。皮膚も。呼吸も。鼓動さえも。私には、私を抱くのが誰かもう、判らない。
あまりに晒され続けた酷な仕打ちに藤堂は毀れた。茫然と目を向ける卜部から藤堂はすでに目線を逸らして夜天の月を見上げていた。あのように白い肌のものとは寝ていない、か。
「…あんたさ。今まであんたを抱いた中に、俺や、朝比奈がいたら、どうする」
藤堂の無機質な目が卜部を舐めた。灰蒼の色を宿す目は冷静で冷徹だ。薄い蒼色だけが白目との区別をつける。ともすれば交じり合って眼いっぱいに広がって見える眼の色は、獣のそれに似ていた。鳶色の髪が乱れて額へはらはらと散っている。
「またいつか、抱いてくれればいいし、私を厭うてもいい」
動揺さえしない。私には、わからないから。私はもう、獣以下だ。そう言って嗤う藤堂の表情は妖艶で、綺麗、だった。首から肩へかけてのなだらかな丘陵や平らな胸。躍動する筋肉の眠る腹や脚。鍛錬と戦闘で鍛えられた性能の良い体躯。埋もれがちだが藤堂は剣も使えるから日本刀を持っている。それの抜刀は見たことがないが、清冽に美しい日本刀に藤堂の容姿は映えるだろう。
「…卜部、だろう? 私は汚い。穢らわしい。関わらぬほうが、利口だ」
困ったように藤堂は笑んだ。卜部巧雪。藤堂は卜部の名を諳んじた。忘れてしまうのかな。月を見上げる藤堂は悲しげに美しい。
「わたしは」
卜部は続きを待った。頑張った? 救われたかった? それとも、愛して欲しかった? なんでも良かった。藤堂が藤堂として紡いでくれる言葉で、あれば。藤堂は笑って言いよどむ。よしておこう。言えばいいじゃないすか。そこまで厚顔にはなれんな。藤堂はあっさりと痛みさえ呑み込んだ。戯言だ。忘れてくれ。虚ろに床を撫でる藤堂の爪先ばかり卜部は見据えた。手入れなどされていないのに割れるような無粋はない。獣のそれのように自然と摩耗するのだと藤堂は嘲笑った。藤堂は卜部の背に爪さえ立てなかった。痛みさえ卜部はもらえなかった。
「月は綺麗だな」
藤堂の眉間が緩むようで卜部はそれだけ感謝した。いつも気難しげに寄せられている眉間は穏やかであるからそれだけでも良かった。相手はいつも正体をなくして寝ていた。いつもこうだったな。いつも?
「いつもこうして月を見ながら、お前がいなくなる足音を聞いていた」
日本は敗けた。枢木ゲンブは死んだ。
藤堂は捕縛された。
不意に凍てつく夜だった
《了》